干拓地に囲まれている現在の安土山、 赤字は築城時の山頂へのルート

土城は天下統一の拠点として天正4年(1576年)1月、普請奉行を佐和山城主の丹羽長秀に命じ、天正7年1月には天主は完成し、その年の5月に信長はここに移っている。安土城全体が完成したのは天正8年の暮れ頃で、天正9年1月に完成を祝し安土馬揃えがされている。 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長は自刃し、6月14日から15日にかけて安土城は炎上してしまう。天主の完成から僅か3年半である。


築城当時の安土山と琵琶湖


(クリックで大きくなります)
注:百々橋口通行禁止

当時の大手口周辺 各門の位置


 
 

幻の安土城 5分 発掘事業(調査整備事業)解説含む
 
安土城の推定復元図について

  安土城復元図の外観
いろいろな本で見られる安土城推定復元図は「信長公記」やその写本の「安土日記」の記述が参考とされており、上の段6階と地下からなっている。特長としては5階が八角である。



  
この復元模型について
童友社、日本名城シリーズの安土城推定復元模型を組立て、フロイス日本史5(中央公論社:松田毅一、川崎桃太 訳)の記述を参考に私の想像で着色をした。
 


   フロイスの記述の概要

@主要な壁は全て清潔な鉄 A七層ごとに種々の色分けがされている。黒い漆を塗った窓を配した白壁、その他の色については、あるものは赤く、あるいは青く、最上層は全て金色となっている。天主は堅牢で華美な瓦で覆われておりそれらは青色のように見え前列の瓦にはことごとく金色の丸い取付がある。B屋根には雄大な怪人面が置かれている。


七層ごとに種々の色分についてはよくわからないが、最上階6階と5階の八角を赤と金に、また天主台跡付近に赤みかかった瓦の破片をよく見かけるので5階の八角屋根を赤くしたが、落ちている赤み瓦の量から推測すると、もっと他の屋根にも使っていたように思う。

また天主についてそれらは青色のように見えとなっているので瓦全体に青みをかけたが、落ちている瓦の破片の中に、はっきりと青色とわかるものは見られないようである。
遠くから見ると天主全体が青みかかって見えたのかもしれない。
黒い漆を塗った窓や白壁はその通りにした。


その他、石垣はフロイトの記述と関係なく自然石をそのまま用いた野面積(のずらずみ)にしたつもり。

 



 
安土城跡を散策
 
安土城跡大手道 入場口がある

大手道口正面    
写真左に見える標識の説明文 安土城を象徴する道  大手道。

目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。
安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されています。

大手門から山腹まで、
180mにわたって直線的に廷びる部分の道幅は、6mと広く、その両側に幅11.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これら書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多く建物で構成されています。

まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。山腹部分は、傾斜が最も急なところでジグザグに屈曲しながら延びています。この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。

伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。
屈曲部分は幅
4m程に狭まりますが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になります。安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上に聳える天主は、街道を行き交う人々に信長の力を強く印象付けたことでしょう。

 



大手口周辺の復元工事が平成16、17,18年と3カ年計画で進められ完了した。



新たに設けられた安土城の総合説明標識
(クリックで標識の解説文と写真)



今まで隠れていた正面石垣も出現
クリックで出現した石垣パノラマ画面)


西虎口復元
 

大手口 西


大手口 西(画面右に見える石段が大手道)


大手口 西虎口1と西虎口2


大手口 西虎口1クリックで西虎口標識の解説)


大手口 西虎口2


平成19年に新たに出現

南山裾帯郭の虎口 
みなみやますそおびくるわのこぐち

 

 

発掘早々既に標識(説明)が設置されている
下記は標識の記載文

南山裾帯郭の虎口
大手口の西枡形虎口から百々橋口までの南山裾には、東西方向に狭く長い郭が続いています。郭の南面石垣に沿って側溝があり、百々橋から大手まで内堀との間は通路となっていました。
この場所は百々橋−大手間の中間地点に当たりますが、平成19年度の発掘調査で通路に面して2箇所に虎口が造あれていることが新たに分かりました。

2箇所とも虎口の幅は約4.5mです。ここは西側の虎口ですが、入りロに石段が1段設けられ、石段の内側は堅く踏みしめられたゆるい上り勾配の通路状で、その奥は西の上段郭に取り付く石段の踊り場となっています。虎ロ西端の石垣沿いには、側溝の縁石を兼ねた土壁の土台となる地覆石(狭間石)の石列と柱と柱の問の距離(柱問寸法)約1.8m(6尺)を測る礎石2基、礎石抜き跡1基が残っていました。また、礎石が小さく土壁が付くことからこの建物は薬医門や棟門のような重厚な門ではなく、東西方向に棟を持つ梁行き2間、桁行き2間以上の建物で、その西側2間分が出入り口となっていたと考えられます。

一方,東側虎口は4段の石段を上って入るなど西側虎口と構造が異なりますが、両虎口が取り付く下段郭に伴う一連の施設と考えています。虎口が見つかるまでは百々橋から大手口の前を通るこの通路は安土城の外周で、一般の人も通行できる城外路と考えていました。しかし、複数の虎口や重厚な門ではなく防御性の弱い平屋の建物となると城の防御の面から通路は城内路の可能性が高くなったことから、西は百々橋口、東は下街道に面した江藤の丘あたりで一般人は通行禁止とするなんらかの閉鎖施設を考えざるをえなくなりました。あらためて安土城の南の外郭が内堀になるということを示す遺構です。

なお、西側虎口内の1段上がった踊り場から西向きに上段郭へ上がる石段は、幅1.7m、奥行き2.7mで、最下段と南辺に側溝が付き、南東隅で虎口西端の側溝と繋がっています。この石段の北側には用途・目的等が分からない石段と同じ勾配を持っ幅1.2mのスロープが付いています。石段を上がった所からは百々橋方面と大手口方面の両方が見渡せます。柱を受ける礎石は残っていませんが虎口との位置関係などから、物見櫓のような建物があったと想像しています。

東虎口復元

大手口 東
クリックで大きな写真と解説)




野面積、後方の石垣には石段も見られる
クリックで大きな写真)




大手口 東
クリックで大きな写真)


築城時の大手門周辺の各門の位置


復元工事の話はおしまい、大手道から天主へ


2006年9月から有料(500円)となり料金所が設置され登り口が一変した
伝前田邸跡

クリックで大きな写真と解説)


登り口に入山心得の看板

伝羽柴秀吉邸跡(上段と下段)

下段の伝羽柴秀吉邸跡

クリックで大きな写真と解説)

上段の伝羽柴秀吉邸跡

クリックで大きな写真と解説)


下段 伝羽柴秀吉邸跡の石垣 パノラマ 右に大手道石段
直線大手道180M、そして90度西に曲がる


直線の大手道


右上は伝徳川家康邸跡、現在はハ見寺 が移設


上段の伝羽柴秀吉邸跡 郭がよくわかる


上段の伝羽柴秀吉邸跡



伝羽柴秀吉邸跡 上が上段 下が下段


大手道は直線に180M登りハ見寺通り過ぎた
地点より西へ90度曲る。


写真右にハ見寺が見えるが、この寺は安土城炎上の際には
難を逃れたが1854年に火災焼失し、ここに移っている。


右の郭がハ見寺

下から見上げるとこんな感じ


上から見ると


上りきると正面に伝織田信忠邸跡が見えてくる


真っ直ぐ行くとハ見寺、三重塔、仁王門へ、右に曲がると黒金門、二の丸、本丸、天主へ


尾根道を上りと黒金門へ


黒金門へたどり着く


黒金門

黒金門


黒金門

     
画面中央に見える黒金門の標識には下記のように書かれている


黒金門は安土城中枢部への入口

ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。.多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安上城のまさに中枢部となります。高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこのー帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。
高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたっで崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。


黒金門の城内側
クリックで大きな写真)


左石垣上は二の丸
クリックでパノラマ画面)


三の御門の石垣


静けさを感じる二の丸跡
クリックでパノラマ画面)
 


三の御門の石垣
 
本丸跡  三の丸は正面石垣の上  パノラマ写真

本丸跡中央にある標識の解説文

天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。
東西約
50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台.本丸.帯廓三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約218m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。
4
6寸(1218p)の柱を65寸(約197m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。
豊臣秀吉が天正
19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復元したのが右の図です。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。
「信長公記」には天主近くに「一天の君.万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ天皇行幸のために信長が
用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。 

 

 中央に標識、その奥に本丸取付台に向かう石段が見える

標識の図


本丸跡  三の丸は左側 本丸取付台から撮影  パノラマ写真

この石段から本丸取付台へ 

本丸から石段を上がった所が本丸取付台

本丸取付台から本丸を見たところ

本丸御殿の上にある天主台の石垣

本丸に隣接している広大な三の丸石垣
三の丸については、安土城を伝える最古の地図(1687年)には、三の丸ではなく、名坂屋敷と記されている。
信長の死後105年後に作成されているので信頼性は高く評価されている。この三の丸が信長公記に記載されている江雲寺御殿ではないかと想定されている。金箔瓦が見つかったのもここと天主だけであるので非常に重要な拠点と推測されている。

本丸取付台から下の台所に隣接する石垣

安土城の火災で割れた石


天主台からは琵琶湖、比叡山方面が一望

天主登口
天主登口の発見(昭和15〜16年の調査 、滋賀県教育委員会滋賀県史跡調査報告第11冊より抜粋

天主登口

次に天主登口については、果して如何なる登口形式が存するか事前には全く窺ひ知るを許さず、崩壊石及び土砂を取除きつつその下方を探知せるところ、果して堆積土砂六七尺の下方に當初の登段遺跡の存するを見出したので、これら遺跡を破損せざる様、且瓦礫や瓦段石と考へられるもの、移動せざる様注意しつ、堆積物を完全に排出し、當初、登段の遺跡を全部明確ならしめた。
この部分は地形の関係上、石藏内部に比し破損せる部分も少くなく、はじめ我々の想像してゐた以上に當初の登段形式が明瞭となつたのであるが、尚下方の段石等は殆ど欠除して不明となっていた。
これらの部分については今後の遺跡保存上から考へて石段石の足らざる部分は補ひ、それらの全然ない部分は適宜足踏石を並べ、而してこれら新たに手を加へた部分の石は加工を加へざる白然石を以つて充て、一見仮設なることが判る様にすると共に、実測園に於いてもその点を明確にしておいた。尚、石藏内部及び登段の堆積土取除きの際この土砂中より登見された瓦、磁器等の発見物あり
,これらについては後述する如くである。



パノラマ写真(正面が西) 右から琵琶湖一望

パノラマ写真(正面が南) 左が石段下口
昭和15〜16年の天主跡初回調査(滋賀県教育委員会滋賀県史跡調査報告第11冊より抜粋)

石蔵内部の遺構

石蔵内部は不規則なる六角形の平面を持ち、南方及び北方は最も長く、南方八間半、北方約十間あり、且ほぼ平行している。
この平面内に東西十列、南北十列、縦横共推定柱眞々六尺九寸間隔に礎石が配列され、東西の柱通りは北方及び南方の石垣線とほ平行している。
礎石の数は本柱礎石と推定されるもの九十一個
,其他束石又は控柱礎らしきもの十数個あり、且中央部の柱眞に相当する地点に礎石を欠く外はすべて完存しているが、後述する如くこの中央部には当初より礎石がなかつたものと考へられた。

これら礎石の大きさは
,本柱礎に於いて小なるもの約四平方尺、大なるもの約十八平方尺、控柱礎一平方尺内外にして、このうち移動せるもの一個.其他多少沈下傾斜せるものあるも全体として大むね現状のままと認められた。礎石問の漆喰に就いては、殆ど全面にその痕跡が残り、在來堆積土砂の表面に蘇生した樹木も.その根はこの漆喰層にて食止められ、それ以下には参入せす、その爲め漆喰の保存も出来たのであるが、又反面漆喰の良好と堅固なりしことをも示してゐる。特に石蔵内部の東南部によく残り、その表術は赤禍色を帯びてゐるが之は天主焼亡の際の火熱の爲め変色したものである。

次に中央柱眞の礎石の欠除せる部分を見るに、その都分には叩き漆喰の跡が認められず、且その附近埋土らしい軟土層のあることが認められたので、試にその部分を掘下げたところ、約二尺平方の大さにて深さ四尺許の穴のありしことが判明した。この穴の中には全部焼土と思しき土砂及び
.本炭化せる木片等が充満し、尚この焼土層の中から禍色の壷の破片十数個を発見した。
この焼土の部分と地山の部分とはその境界がはつきりしており、この縦穴が天主と同時のものか
.焼亡後に掘られたものか、叉如何なる用途のものであつたか明らかに爲し得なかつたが、穴の底の状況その他より考へて少くも掘立柱の穴とは考へられなかつた。

平成12年度の天主跡の再調査滋賀県教育委員会)
(図説 安土城を掘る 滋賀県安土城郭調査研究所 編著より抜粋)

天主台の調査

天主台、特に穴蔵部分の調査は、昭和一五年(一九四〇)に続き今回が二度目の調査となります。
今回の調査前には穴蔵一帯に礎石が広がり、前回の調査後は、ほんの僅かな覆土をもって埋め戻しがなされただけで本柱に伴う礎石は総て露頭していたことになります。

今回の調査では、改めて穴蔵全体の悉皆調査を実施しました。結果は、本柱に伴う側柱の礎石や礎石抜き跡が新たに数カ所確認されました。また、本柱の礎石は、郭の造成面に礎石を据え付け、その後に床面となる化粧土をもって床を形成していることから、一般的な礎石の据え付けと異なり、礎石堀方を伴わないことが分かりました。その他、前回の調査では、床面の化粧土に漆喰が用いられていたと報告されていましたが、今回の調査では、土の成分分析をおこなった結果、漆喰を使用していなかったことが明らかになりました
.
 


平成12年の調査


「礎石抜穴」、「被熱赤化した漆喰タタキ」の標識


ハ見寺へ向かう石段


左写真:ハ見寺へ向かう石段の現在位置

ハ見寺跡  右に標識(説明文参照)

右に三重塔


パノラマ写真


標識の解説文

ハ見寺は、織田信長によって安上城内に創建された本格的な寺院です。
天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永
7年(1854)に惜しくも伽藍の中核部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺院を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。
平成
6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されま.した。南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。
本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は仁王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。
その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築されました。
江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・
.土蔵・'木蔵など寺の生活を支える多くの建物が建てられました。
右の『近江名所図会」に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続けるハ見寺の姿がうかがえます。


標識の図


標識の図 安土山ハ見寺



ハ見寺跡からは西の湖が一望

三重塔( クリックで大きな写真)
oni280.jpg (36784 バイト)
三重の塔の瓦
( クリックで大きな写真)

仁王門

百々橋口からはこの門をくぐり仁王門へ向かう

現在は百々橋は通行禁止のため山道を通過

下段の伝羽柴秀吉邸跡にたどり着く

百々橋口は有料に伴いここからの入場は禁止になった