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観音寺城の歴史解説 12分 |
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佐々木六角氏の概要 |
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★ | 佐々木氏の系譜:第59代宇多天皇の第8皇子 敦実親王(893-967)の 三男、源雅信(920-993)を祖とする。 |
★ | 近江に住み着いたのは雅信より2代後の成瀬の時で、その孫の経方の代に近江佐々木庄小脇(八日市市)に、居住を定めた。 |
★ | 歴史の表舞台にでたのは、治承4年(1180)に源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時に、秀義の息子5人(定綱、経高、盛綱、高綱、義清)が華々しい活躍をしてからとなる |
★ | 嘉禎2年(1236)に定綱の息子、信綱の代に財産分けで三男の泰綱が六角佐々木を、四男の氏信が京極佐々木を名乗るようになる、京極佐々木氏は後に浅井氏にとってかわられる。 |
★ | 観音寺城築城の正確な時期は不明であるが、文明3年頃(1471)には、ほぼ完成されていたと推測されている。 |
★ | 応仁の乱の後、佐々木高頼の時に権力強化を目指したことにより、将軍の反発を受けて1487年には9代将軍義尚から(長享の乱)、1491年には10代将軍義稙から(延徳の乱)追討されたが 、戦略的に逃亡して相手のスキを見て反撃する戦法で相手の戦意を消失させしのいでいる。 |
★ | 佐々木高頼の時代には長男の義実が11代将軍義澄と妹と祝言を挙げる(1498年)など、将軍家との関係を深める。 |
★ | 佐々木定頼の時には娘と管領細川晴元との祝言(1537年) 日本初の楽市楽座(1549年)など六角の最盛期を築く。 |
★ | 永禄6年(1563)に観音寺騒動が起こる。家督を継いだばかりの19歳の 義治が重臣の後藤親子を殺害したことから、六角主従の結束が弱まり、衰退の兆しが早まる。 |
★ | 永禄11年(1568)に信長が佐久間信盛と木下秀吉を大将として、箕作山城 を攻める。箕作山城陥落して 義賢、義治父子は逃げる。 |
★ | 観音寺城は落城したとされているが、昭和44、45年の発掘調査で全山にそのまま石垣、石段、排水溝、井戸等が発見されている。山頂の本城跡からは焼土層がみつからないことから、当時はまだ本城は焼けていなかったことが確認されている。 |
観音寺城の位置
信長が尾張那古屋城で生まれた1534年、ここに室町仮幕府があった
第12代将軍 足利義晴の結婚式が行われた
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