伝前田邸跡とか伝羽柴秀吉邸跡など呼ばれているが、かなり後生になっていい加減につけられた屋敷名なので
番地と考えたらよいと思う。全くの”伝”に過ぎない。秀吉も前田も当時ここに住んでいるわけがない。

 標識の説明文       伝前田利家邸跡

ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。
大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固ある重要な位置を占めています。
急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明てす

隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。門を入ったこの場所は枡形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北を
L字型に多聞櫓が囲んでいます。北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いています。

この枡形から先は道が三方に分かれます。右手の道は最下段の郭に通じています。ここには馬三頭を飼うことのでさる厩が建っていました。
この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書「匠明」に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。
厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。

正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るものです。正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものでしょう。前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木桶を備えた排水施設があります。

多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出ます。広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。
遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこ
.に当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、現在竹薮となっており調査が進んでいません。

さらにその東にある奥座敷は特異な平面を持つ書院造り建物です。東南部に突出すた中門を備えているものの、部屋が一列しかありません。
あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半部の部屋を撤去したのかもしれません。

伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その配置には大きな相違が見られます。向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない
16世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な遺構です。
 



伝前田邸は奥が深く神秘に閉ざされている


標識の図


各要所で見られる解説の標識



上の図から見るとこの復元石垣はほんの一部に過ぎないのがわかる

 

伝前田利家邸跡の虎ロ

一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言います。
伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。
発掘調査の結果、入ロは南側の石塁及び門の礎右ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。
門をくぐると左手には高さおよそ
6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。
また、一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。
正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀(しとみ)の石塁」となっています。
入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。

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このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかります。


三段の石垣
 


標識の図